1945年8月14日午後11時半ごろから15日未明にかけてあった空襲。
実際には15日の明け方だったとされるけれど。
アメリカ軍の記録なのかどうか。
当時、時計なんか見てる余裕なかっただろうし。
体験談として語り継がれたら時間の誤差は仕方ないのかも。
出発地のグアムに戻ったそうです。
小田原の空襲はアメリカ軍の記録には残っていないらしい。
残った弾薬をすべて、小田原に投下してのではないかと言われてる。
翌日、終戦を知らせる放送を焼け野原で聞いたんですね。
この放送は、前日に録音したものを流したんだとか。
日本が敗北し、戦争が終わることはわかっていました。
それでも、トドメを刺す為に飛び立ち、空襲したそうです。
熊谷が焼かれた理由は今でもハッキリわかっていません。
航路がわかったのも最近のことです。
(熊谷図書館に寄贈されたらしい)
重要施設があったから…とか、埼玉県庁と間違われたとか。
もう1日早く、半日でも早く、降伏していれば。
熊谷は焼かれずに済んだんです。
15日。どんな思いで終戦を知ったんでしょう。
どんなに、悔しかったでしょう…
毎年、この日に。
この話を書こうと思っています。
それば、病院の待ち時間に、知らないお婆さんから聞いた体験談。
コレを聞いたのは20年近く前。私が中学生の頃。
私も、興味無かったし、そんな事、知らなかった。
(今思えば、小学生の頃、教師から学校が焼けた話を聞いたんだよなぁ。)
もっと、ちゃんと聞いてあげればよかった。
断片的に覚えてる内容としては。
川に飛び込み、死体が沢山浮いていたとか。
今は整備された用水路ですが。
当時は湧き水が流れる、小さな小川だったらしい。
お婆さんは、まだ小学生くらいで。
下の子供達の面倒を見たり、家事をしていて。
怪我をしたまま、治療もせず、汚い水で洗濯をしているうちに。
手が動かなくなってしまったんだとか。
家を焼かれた後は、荒川の近くで過ごしていたらしい。
その頃はあまり、熊谷の地理に詳しくなくて。
いろいろ言われたけど、頭に思い描くことができなかった…。
市内では、防空壕もいくつかあって。
今では、物置と化していたりしますが。
深谷や岡部にも。
畑の中に、何かの施設の跡があったりと。
戦争の爪痕と痕跡を見ることができます。
15日の日中はとても暑かったらしい。
暑いし、街は燃えていて。
落ち着いたのは16日になってから。
実際の放送なんて、聞ける状態じゃなかったみたいです。
あとは、よくわからないけど。
銃弾で撃たれないように、空に向かって猫を投げたという話も聞いたな…
それを参考にしているのかもしれないけど。