毎年、この時期に別のブログで書いているのですが。
1945年の8月14日から15日にかけて、埼玉県熊谷市が受けた空襲があります。
太平洋戦争最後の空襲。
埼玉県内では最大規模の空襲であり、熊谷市は埼玉県内唯一の戦災指定都市となりました。
この空襲で悔やまれる事は日本の終戦の前夜の空襲だった事。
他に、埼玉県の県庁所在地に間違われた事(仮説)
自衛隊の学校がある事(コレも仮説)など、理由がはっきりしていない事です。
もちろん広島、長崎への原爆の後です。本当に悔やまれます。
この最後の空襲では、
神奈川県 小田原.
小田原にいたっては、この空襲で残った焼夷弾を投下して行ったんだとか。
この攻撃は、アメリカ軍の記録には残っていないそうです。
持っていた弾薬の数も把握しないで、パイロットの判断で攻撃したんでしょうか。
そして。
一番悔やまれるのは終戦の前夜だった事でしょう。
もう1日早く日本が降伏していれば、助かった命が沢山あるのです。
が、降伏を知っていて念を押すつもりで落としたのではないか?
とも言われています。
上層部だけ知っていて。通達しなかったんでしょうか。
翌日、国民に向けられた終戦を知らせるラジオ。
どんな気持ちで聞いたのか?
考えるだけで辛いです。悔しかったでしょう。
終戦記念日のニュースでかき消されてしまい、知っている人が少ないのですが。
最後に空襲にあった街があるという事を多くの人に知っていてほしいと思います。
この熊谷空襲について知ったのは…
10年以上前ですが。
病院の長い待ち時間でたまたま近くに居たお婆さんとお話したのがきっかけでした。
その空襲がきっかけで指を負傷して。
当時の衛生状態の悪さから化膿して動かなくなってしまったそうです。
兄弟の世話をしたりしていたそうで、洗濯中に黴菌が入ってしまったのだろうと話していました。
もちろんこの時代手洗いですからね…
当時の街や自分の家が焼ける光景などを話してくれました。
今は桜が植わっていますが、熊谷には土手があって。そこも焼けていたんだとか。
こうやって、戦争の事を話してくれる人たちが今はもう少なくなってしまっていますが。
この縁を大事にして、私が次の世代へ話していきたいなと思っています。
14日午後11時30分頃から15日午前2時頃まで
この空襲で市街地の74%が焼失、3000人が負傷、266人が死亡しました。
星川通りという川が流れる通りがあります。
そこだけで100人ほど犠牲になったそうです。
沢山の人が熱くなった川に飛び込み、亡くなったそうです。
当時の星川は今のようにまっすぐではなく、くねくねしていて。
家が川ギリギリに建っていたそうで。
亡くなった人たちというのは家の下敷きや酸欠だったそうです。
川は湧き水でとても綺麗だったんだとか。
今は枯渇してしまい農業用水が流れています。(錦鯉がいたなぁ)
熊谷は暑い街というのももちろんですが。
太平洋戦争で最後に空襲を受けた街というのを知っていてほしいです。