肺癌医師のホームページ
41歳 肺癌医師のホームページという記事を読みました。
Twitterで紹介されていたので。
目に止まった人も多かった記事だと思います。
20年近く前のHPで、今でも管理されています。
書いていた医師の方は残念ながら2002年の1月に他界しています。
まだブログなんて無かった時代ですね。
HPも賑やかではないけど、やっとネットが普及した頃です。
http://www.inter-pro.ne.jp/~ina/
この頃、私は高校生でした。
自分の病気の事を調べて、
もしかしたら、この病気かなと思ったのはこの頃。
病気が確定したのは20歳頃で、難病と知ったのは、もっと先…
認定となると、もっと先です。
癌治療を続けながら綴った医師の日記の中に。
子供たちに病気の事は言っていない、弱った姿は見られたくない。
ようなことが書いてありました。
まだ、お子様が小さかったこともあり、さぞ無念だったことでしょう。
そして、医師であるがゆえに解ってしまう自分の身体の限界。
私の母方の伯父も肺癌でした。
肺癌から脳に転移して、視覚障害が出るようになったそうです。
精神の崩壊があったかどうかはわかりません。
かなりのヘビースモーカーで。
むせながらタバコ吸ってましたが、元気だったのに。
あっという間に亡くなってしまいました。
肺癌は転移しやすいんです…
入院したと聞いて、次に聞いたのは訃報でした。
心配させたくないからと言って、何も言ってくれなかったのです。
それは、やはり…
弱った姿を見せたくないという気持ちからなのでしょうか…
伯父が、なにか日記のような物を遺したかわかりません。
祖母のために家を建て替えバリアフリーにして。
犬も飼っていたし、やりたいことは、まだまだ沢山あったと思います。
まだ50代でした。
どんな気持ちで、会社のモノを片付けたのか。
それとも、戻るつもりで、そのままだったのか解らないけれど。
会社の肩書は、そのままだったようです。
私は一度も、お見舞いに行くこと無く、亡くなってしまいました。
その、おかげか、思い出す姿は、いつも元気な姿です。
それを本人が望んでいたのなら、良いことなのかもしれません。
この日記を遺した医師の方は。
その願いは叶ったのでしょうか。
私が小さい頃は、伯父が弟の足を持って。
逆さにして犬に顔を舐めさせたりしてました。
弟は未熟児だったので、とても心配していたそうです。
名付け親でもあり、とても可愛がっていました。(?
泊まりに行くと、夜中にドライブ連れて行ってくれたり。
私は毎週、日曜日、午前中にスイミングスクールに通っていて。
お昼を買って、祖母の家で食べて。夜まで過ごして。
それが、中学生くらいまで、欠かさなかったのに。
中学入学でスイミングスクールもやめたし。
中学生の頃、母が亡くなり。
母の実家である祖母の家に行く頻度も減りました。
行くのは正月とお盆くらいになって。
それでも私が成人式の時は、とても喜んでくれました。
免許を取った時は、伯父の車を運転させてくれました。
やつれた姿など、想像できません。
そのくらい、元気で、面白い伯父さんでした。
亡くなった時も、
骨が太くて普通サイズの骨壷じゃ入り切らないって言われたらしいです。
白い骨壷じゃなくて。
なんか、やたら派手な柄だったのを覚えています。
そういうのも自分で選んでいたのかもしれませんね。
今では「終活」なんて言葉がありますが。
20年くらい前は、それほど浸透していないし。
エンディングノートなんてものも無く。
自分の希望を綴るのは大変なことだったと思います。
伯父が癌告知をされ、入院していた時間。
どんな事を考えていたのかは解らないけれど。
その姿を見られたくないと願ったのなら。
それを尊重しないといけませんね。
でも、遺された側としては、やはり寂しい気持ちもあります。
最後に会ったのはいつで、どんな会話をしたのか覚えていないから。
社会人になって、初めてのお葬式が、伯父のものとなって。
急いで喪服を揃えました。
中高時代は制服でしたからね…
伯父も、祖母もレックでしたが。
癌で亡くなってしまいました。コレがレック由来なのかわかりません。
伯父と祖母とはレックの話は一切しなかったし。
話すのはタブーみたいな感じでした。
呪いを受けたとか、そんな認識だったから…
おそらく、難病申請もしていなかったです。
母には、もうひとり叔父(弟)が居ますが。
叔父にはレックは遺伝していません。
そして、今も元気です。
レックの母、祖母、伯父が亡くなっていて。
レックじゃない叔父が元気なのを見ていると…
関係ないとは言えない気がしてしまいます。